戦後初の死刑執行女性 小林カウ(コウ)の顔画像 生い立ちから明言、家族(娘や息子)について調査!

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今日9月18日方放送の爆報!THEフライデーでは実録!恐怖のミステリー事件簿と題してホテル日本閣事件にスポットが当たります。

放送内容は

実録!伝説のコワい女
▽栃木県の有名温泉旅館で突如、女将をはじめ次々と謎の失踪…

▽手がかりは見つからず捜査は難航…
 だが意外な人物の逮捕で事件は急展開を迎えることに!▽犯人は戦後初の死刑執行女性…昭和の毒婦と呼ばれた伝説の悪女…今夜、事件の謎に迫る!
さらに!現地取材で恐るべき裏の顔が明らかに!

昭和の毒婦とも呼ばれた、戦後初女性で死刑執行された人物は小林カウ(コウ)です。

一体どのような女性で、どんな人生を送ってきたのか調査してみました!

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戦後初の死刑執行女性 小林カウ(コウ)の顔画像 プロフィールと事件の概要

名前:小林カウ(読み方はコウ)
生年月日:1908年(明治41年)10月20日
没日:1970年(昭和45年)6月11日死刑執行
 ホテル日本閣事件の簡単な概要
小林カウには商才があり、事件当時も栃木県塩原温泉で食堂など2軒の店を持ち、ホテル日本閣を乗っ取ろうと計画。最初は金銭を払い買収するつもりだったが、それが叶わないと分かると経営者の愛人になって乗っ取ろうと企む。しかし経営者の妻が邪魔になり、従業員であった大貫光吉を色仕掛けでたぶらかし妻を手に掛けさせる。その後経営者も大貫と共に殺害。
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小林カウの生い立ち・経歴

  • 1908年埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に生まれる(7人兄弟の5番目の次女※所説あり)
  • カウの家は集落の中では旧家だったが、大変貧しかった
  • 小学校を4年で終え、5年ほど家事を手伝ったのち東京・本郷の旅館に女中奉公に出る
  • 1930年22歳の時に熊谷の在に嫁いだ姉の紹介で新潟県柏崎市出身の林秀之助(当時27歳)と見合い結婚

病弱な旦那に不満を抱き警察官の愛人を作る

見合い結婚をしたカウでしたが、この相手林秀之助は身長160cmもなく小柄な体格に加え、貧弱で青白い顔をした青年だったといいます。

さらに結婚後にこの秀之助が慢性胃腸病と慢性淋病を持ち、病弱であることからカウは夫婦生活に満足出来なかったそう。

最初雑貨商を営んでおり、それが上手くいかなくなると夫婦は熊谷を離れ、東京近辺を転々とします。

この間に戦争は本格化。一時夫の秀之助も兵隊として出ていきますが、体を壊して帰ってくることに。この時にはすでに気力の無い中年男となっており、旦那が病みがちで働けない代わりにカウの働きで生計を支えていたといいます。

  • 自転車のタイヤのブローカー
  • ゴム、米、砂糖などの禁制品も扱い始め(闇物資)
  • 菓子の五家宝作り
  • 観光地向けの辛子漬や芋のつるの砂糖漬の土産物製造卸売り

これら様々な商売をして、カウは金を稼ぐ喜び、楽しさを知り、この物欲がホテル日本閣事件へと繋がっていったとされます。

病弱だった夫の代わりとなるような愛人作りもマメに行っていたとされるカウ。

自宅近くの交番に勤める若い巡査とねんごろになります。

警官の名前は中村又一郎(当時25歳)カウが40代の頃です。

当初、又一郎を自分の娘の婿にと考えていたようですが、独身ですらりとした男前、旦那に満足していないカウはこの又一郎と関係を持ちます。

カウ曰く逮捕後も「わたしゃ中村又一郎で恋を知った。今でも好きです」とこう語るほど夢中になった相手だとされています。

ただ、闇物資を扱っていたカウにとっては警察の取り締まりも恐れており、又一郎と関係した後にも「今度、取締りの時は教えてね」と自分側に取り込んでおくような発言もしていたようです。

夫を手に掛ける(熊谷事件)

カウが愛人を作っているのは夫である秀之助も気付いていたようで、カウは愛人である又一郎と一緒になりたいがために秀之助に離婚を迫りましたが相手にされず。

結局邪魔になって又一郎と共謀し秀之助を手に掛けます。

1952年10月2日、秀之助は亡くなります。唸り声を聞いたとする隣人が駆け付けた時にはカウは秀之助の死に顔を撫でていたといいます。

派手な喧嘩を繰り返していたことは近隣でも有名で、カウが手に掛けたのでは?という噂もながれましたが、保健所の医師の立ち合いで脳出血と診断、警察は捜査を打ち切ります。

その後、ホテル日本閣事件により逮捕されたことで、秀之助の死にもカウが関わっていたことが明るみとなります(熊谷事件)

愛人である中村又一郎が若い女と結婚

秀之助の死からまもなく、カウは中村又一郎を自宅に招き同棲を始めます。

元々勤務態度が悪かった又一郎は懲戒免職となり、実質カウのヒモのような存在に。

カウもまた、年下の又一郎を引き留めておくには金が必要だと益々商売に精を出しました。

その間、同居場所を中村又一郎の家に移すなどしましたが、同棲生活が始まって2年、2人の関係に終わりが訪れます。

元々親ほど年齢が離れており、又一郎も嫌気がさしていたのかカウを家から追い出すとさっさと若い女と結婚してしまいます。

怒ったカウは又一郎と嫁が住む新居の戸を蹴り、新妻に毒づき、転げ回って悔しがったといいます。

ここで、又一郎との関係は終わるのですが、一方、カウの商売の方は順調であり、辛子漬の製造卸を姉の一家と共同事業していました。

カウは近県の観光地・温泉地を回って商売を行い、1954年事件の舞台となる栃木県塩原温泉郷へとやってきました。

ホテル日本閣の乗っ取りを計画

塩原温泉郷にやってきたカウは、その積極的な行動力ですぐに地元の人々とも馴染み、商売も上手くいったといいます。

ゆく先々で知り合っただけなのに家に泊めてくれるという塩原の土地の人の気安さにカウもすっかりとこの土地が好きになったそう。

カウが当時営んでいたのは

  • 1956年春、カウはホテル明賀屋前の小店を一軒「那珂屋物産店」
  • 1957年春、「那珂屋物産店」の店の隣を買い取り小食堂「風味屋」

カウは商売のためなら金を使うとこに躊躇いはないようで、最初に出したお店も家賃を1年分前払いで払い、借り上げていたといいます。

2軒目のお店は姉夫婦に任せ、商売は順調に行き、カウの資産は300万円ほどになっていたそう。これだけを見れば本当に商売上手な女性なのですが、カウは更に高みを目指します。

その内に土産物屋だけでなく、温泉宿を持ちたいと思うようになったのです。

旅館の仕事であれば幼い頃に女中奉公の経験もあり、カウの中で旅館の女将への憧れがムクムクと生まれてきました。

ちょうどそのころ、カウはホテル日本閣が安値で売りに出ていることを知ります。

経営不振により、3~400万円ほどで売ってくれるという噂にカウは飛びつき交渉するも主人である生方鎌助(当時52歳)は売る気がないようで、この話は一旦消えました。

しかし、再びカウにチャンスが巡ってきます。

ホテル日本閣は生方鎌助が温泉番頭などを経て1957年春に開業。しかし、強引に開業したために引き湯に権利が取れず、自費で送湯管を敷いてもお湯が冷えてしまい、ボイラーで沸かし直しており、当然そんな旅館に人が寄るわけもなく経営は厳しかったそう。

59年春には無謀にも新館の増築に取り掛かったが、途中で資金が尽きて未完成となります。壊そうにも資金がない、そんな時に鎌助が思い出したのが前年ホテル日本閣を売ってくれと交渉に来たカウでした。

すぐに融資を持ち掛け、この時鎌助は条件として「妻・ウメに対する手切れ金50万を出してくれれば、後釜にしてやる」と交渉。

カウにしてみれば50万円で温泉旅館の嫁の権利が買えると意気込みます。

しかし手切れ金を30万に下げてウメに交渉するも失敗(50万円という条件をウメが譲らなかった)

どうせウメは承知しないし、手切れ金を出すのは惜しいからとウメを亡き者にしようと計画します。

共犯者・大貫光吉を誘惑し、実行犯に

1960年1月、カウはホテル日本閣で雑役をしていた大貫光吉(当時36歳)を誘惑。

ウメを亡き者とするため、「手間賃2万円で成功したら抱かせてやる」と言い、普段から女っ気がない光吉も思わず頷いたそう。

こうして実行犯・共犯者を得たカウは1960年2月8日ウメを亡き者とします。

この計画はウメの夫である鎌助も知っており、手を下すことを躊躇していた光吉に対し「ウメは体が弱っていて、ちょっと絞めればイチコロだから、今夜は間違いなくやってくれよ」などと励ましていたとされます。

ウメの遺体は元ボイラー室の土間を掘って埋められましたが、なんとその後塩原では「ウメさんが殺された」という噂が流れ始めます。

3人しか知らないはずの事実に実行犯である光吉はボイラー室の床をコンクリートで塗り固めました。

すると今度は「ボイラー室で埋められている」という噂が流れ、3人は3月中旬にコンクリートの床を掘り起こして、ウメの遺体を裏の林に運び埋め直したそう。

このころからなにか怪しい…と噂されていたんですね。

ホテル日本閣経営者・生方鎌助を手に掛ける

1960年の11月、カウは大貫光吉に鎌助を亡き者にしようと持ち掛けます。

動機はウメを手に掛けたあと、登記所に行ってみたら自分の名義になってるはずの新館が旧館とともに近々競売にかけられることになっていたことを知ったからです。

ウメが亡くなったあと女将としての手腕を振るうため、増築などで200万を注ぎ込んでいたカウはこの時「騙された」と確信し、鎌助を手に掛けることに決めます。

カウは光吉に報酬とホテル日本閣の亭主の座を約束し、共謀するよう持ち掛けます。

12月中旬に毒殺を計画するも、これは失敗。

そして大晦日に2度目の実行。激しく抵抗されたものの、鎌助を亡き者にすることが出来たカウは元日に訪れた年賀の客に「鎌助さんは東京に金策に行きました」となどと話しています。

小林カウ・大貫光吉逮捕

鎌助を亡き者とした後、町では以前よりもさらに噂が大きくなっていました。

新聞社もその噂を聞きつけ、ホテル日本閣の経営者夫婦の失踪を探り始め、誌面でも取り上げられるようになりました。

1961年2月20日、とうとう小林カウと共犯者大貫光吉は逮捕。

この時カウは52歳でしたが、丸顔で可愛らしかったといいます。

事件のその後:逮捕後、夫の事件も明らかになる

逮捕後カウの最初の証言によれば愛人であった中村又一郎に「亭主をやってしまおう」と青酸カリを受け取り、秀之助に風邪薬と偽って飲ませたとしています。

しかしカウは逮捕後裁判が進むにつれ、青酸カリは受け取ったが川に捨てた、又一郎に精力剤だと言われ受け取って夫に飲ませたら死んだ、などとコロコロと供述を変えています。

カウに青酸カリを渡したとされる又一郎がどこでそれを手に入れたかも調査され、とあるメッキ工場主が制服巡査に青酸カリを渡したことがある、との証言もありましたが、それが10数年も前のことで又一郎であるかも不明のまま。

愛人であった中村又一郎は熊谷事件で逮捕されましたが、最初から最後まで容疑を否認し、証拠不十分で無罪となりました。

また、カウはどんな時でも女であり、取調べ官の手を自分の太ももに持っていったり、「死刑だけは堪忍ね」などと言い愛想を振りまいていたといいます。

事件のその後:裁判で死刑判決が下る

1966年7月14日最高裁で小林カウと大貫光吉に死刑判決が下ります。

1970年6月11日には東京の小菅刑務所において刑が執行されました。

小林カウ 享年61歳 戦後、女性の死刑はカウが初めてでした。

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小林カウの家族(娘や息子)について調査

カウには夫である小林秀之助との間に2人の子供がいます。

最初の子は1931年生まれで、息子でしたが、夭折。

次の子はその翌年1932年、生まれの女の子です。

カウが愛人中村又一郎と同棲している時にはすでに20歳であり、折り合いはよくなく、その後は絶縁状態であったようです。

ですので、娘さんの情報は一切ありません。

もし今もご存命でしたら、娘さんは88歳ですね。

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小林カウの明言

小林カウは昭和の毒婦などと言われています。もちろん、起こした事件は絶対に許されるものではありませんが、その生涯を見ていると、生きるために必死で商売をしている、また商才がある女性という印象です。

それを表すかのように、小林カウは以下のような明言を残しています。

捕まったという事は、事業に失敗したのと同じだと思います

まさにこの事件そのものがホテル乗っ取りを企てたことから始まったものであり、カウにとっては捕まったのは事業に失敗したも同じ…ということなのでしょう。

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ホテル日本閣のその後

事件後、ホテル日本閣がどうなったのか、跡地などの情報はこちら↓にまとめています。

ホテル日本閣事件の跡地はその後どうなっている?住所や場所は?
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