ディアトロフ峠事件の真相は?原因は放射能かマンシ族か雪崩か…ネタバレあり│世界の何だコレ!?ミステリー

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今日11月4日放送の世界の何だコレ!?ミステリー【未解決事件の真相/何だコレ映像/視聴者投稿】と題し2時間スペシャルで放送されます!

放送内容は

▽1959年ロシアのとある雪山で、登山チームの男女9名が謎の死を遂げた。彼らのテントはなぜか内側から引き裂かれ、靴も履かずに遺体となって発見された不自然な遺体と、不可解な状況。この事件は「ディアトロフ峠事件」と呼ばれ、事件の原因に関する説は75にも及んだが、61年間その謎は解明されることなく「世界最大級の未解決ミステリー事件」に…しかし、今年7月、長年にわたりさまざまな臆測を呼んできたこの事件に新展開が!事件を再調査していたロシア検察が、ある結論を発表したのだ。導き出された結論とは一体!?あの日あの雪山で何が起きていたのか!
▽視聴者の“長年の謎”を田中卓志隊長(アンガールズ)&あばれる君先生が直撃!田中隊長が調査するのは「35年前に山で、謎の文字が刻まれた金属を拾った」というご投稿。手のひらサイズの金属はずしりと重く、何やら裏には文字らしきものが…成分分析をもとに専門家に調べてもらうと…驚きの正体が判明!! そして、歴史担当あばれる先生が視聴者投稿コーナーに登場!宮城県にお住まいの視聴者から「私の祖父が『先祖は真田幸村』だと言っているのですが、本当なのか調べて欲しい」という、歴史にまつわる情報をお寄せいただいた。聞けば、ご自宅には幸村と何か関係があるかもと思わせる品が代々受け継がれているそう…約1カ月にわたり、先祖をたどる調査を開始!たどり着いた結末とは!?

そこで今回の記事ではディアトロフ峠事件について調査してみました!

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ディアトロフ峠事件は解決してる?導き出された結論とは?原因は放射能かマンシ族か雪崩か…

ディアトロフ峠事件の詳しい内容は後述しますが、この事件は不可解な状況が多く、ロシア国民からの関心や、事故の犠牲者である遺族の方たちからの真相究明を求める訴えもあったため、ロシア連邦最高検察庁によって事件発生から60年後に至るまで捜査が続けられていました。

そして今年2020年7月、事件の真相が明らかになったとウラル連邦管轄区検察局次長アンドレイ・クリヤコフ氏によって発表されました。

その内容は

  • 死因は低体温症
  • 不可解な点が多い遺体の損傷は雪崩による雪の圧力によるもの

と発表。つまり、事故の直接的な原因は「雪崩」としました。

ウラル連邦管轄区検察局次長アンドレイ・クリヤコフ氏の見解

事件の真相は「雪崩によるもの」であると発表したウラル連邦管轄区検察局。

当時の事故はこのようにして起こったとされる見解は以下のようなものです。

  • 一行は雪崩の危険から逃れるために、自然の防波堤となる尾根の裏側へ避難
この判断は正しかったが、当時の視界は僅かに16メートルであり、この際にテントを見失った。
  • テントを見失った彼らは焚き火をすることにしたが、その火は1時間後には消えてしまい、2名が低体温症で死亡。一行はここから二手に分かれ、テントを探す事にした
一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフが率いたグループ
  • テントの方向へ這って向かっていたが、森を離れた途端に突き刺すような風に吹かれることになった
  • マイナス40~45度という寒さの中でテントにたどり着くことも叶わずにやがて凍えて死亡
  • 一行が薄着だった理由は矛盾脱衣(寒いにもかかわらず服を脱いでしまう異常行動の事)ではないかとの見解
もう一方はアレクサンドル・ゾロタリョフが率いたグループ
  • 雪を掘って寒さをしのごうとしたが、そのせいで雪崩を起こし潰されてしまった
  • 遺体に見られた骨折は、重さ数トンもの雪の圧力によるものであるとの見解

遺族は納得せず

クリヤコフ氏によりますと、2020年7月に発表した上記の件をもって捜査は打ち切りにするとのことです。

「捜査は形式上これで終了。事件は一件落着である」としています。

一方で事件の犠牲者の遺族側弁護団体は「遺族はこの結論には納得しておらず、人為的な要因であろう」と推測し、クリヤコフ氏の結論には同意していないとのことです。

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ディアトロフ峠事件の概要

1959年1月下旬、ウラル科学技術学校の学生ならびに卒業生からなる男女10名のトレッキングチームがウラル山脈オトルテン山を目指して遠征に出発。

当時のメンバーは

  1. イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ (Игорь Алексеевич Дятлов)一行のリーダー、1936年1月13日生まれ
  2. ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ (Зинаида Алексеевна Колмогорова)1937年1月12日生まれ
  3. リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ (Людмила Александровна Дубинина)、1938年5月12日生まれ
  4. アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ (Александр Сергеевич Колеватов)、1934年11月16日生まれ
  5. ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (Рустем Владимирович Слободин)、1936年1月11日生まれ
  6. ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ(Юрий (Георгий) Алексеевич Кривонищенко)、1935年2月7日生まれ
  7. ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ (Юрий Николаевич Дорошенко)、1938年1月29日生まれ
  8. ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ (Николай Владимирович Тибо-Бриньоль)、1935年7月5日生まれ
  9. セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ (Семен (Александр) Александрович Золотарёв)、1921年2月2日生まれ
  10. ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン (Юрий Ефимович Юдин)、1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没

このうち、10人目のユーリー・エフィモヴィチ・ユーディンさんは途中で持病のリウマチが悪化し、パーティから離脱。一行は9名となり、これ以降生前のチームと遭遇した人物はいません。

捜索に至るまでの経緯

一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフさんが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていました。

2月12日までには電報が送られてくるだろうとしていましたが、以前にディアトロフさんがもう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、12日を過ぎても誰も異変には気付かなかったといいます。

しかし、2月20日になっても連絡はなく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送り、更にその後軍と警察が救助活動はに加わり、ヘリコプターや航空機を投入した大規模な捜索となりました。

発見に至るまでの経緯と不可解な遺体

  • 2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見
テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている
  • 調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロ北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで雪に覆われて見えなくなった
  • 捜索隊は森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見
木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった
  • 捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見
遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた
  • 残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要した
  • 残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見
  • 4人はほかの遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた
  • ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた

当時の最終的な調査結果は「抗いがたい自然の力」によって被害に遭ったとしている

当時のジャーナリストらが入手可能な死因審問の資料の一部として報じた内容は以下のようなものです。

  • 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した
  • 9人以外に、ホラート・シャフイル山にほかの者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった
  • テントは内側から切り開かれていた
  • 一行は、最後に食事を摂ってから6 – 8時間後に死亡した
  • キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた
  • 何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められた
    発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない

死因審問、検死の結果

  • 最初の5人の遺体は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明
スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった
  • 5月に発見された4人の遺体の検死は、彼らのうち3人が致命傷を負っていた
チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた
  • ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている
  • 特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった

死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論付けられています。

事件の原因に関する説は75にも及ぶ

ディアトロフ峠事件ではあまりにも不可解な点が多くあったため、75もの事件に関する説があったとされます。

その代表的なものが以下のものです。

  • ミサイル発射説-カプスチン・ヤール演習場からミサイルが発射されていることが確認されているが、それはディアトロフ峠からは見えなかったはずであるためこの説は否定された
  • 核爆発説-事件現場の近くには核実験場があるが、核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染でもあり得ることから否定
  • UFO説-登山当日に事件現場の南50キロの地点で奇妙な光球が目撃されているためUFO説もある
  • 暴風説-こちらは事件の原因として最も検討された説で、現場付近では秒速50~70メートルもの凄まじい風が吹くことがあることから有力視された。が、気候学者によってこれも否定
  • 先住民のマンシ族が一行を襲撃したという説-ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、現場に一行の足跡しか残っていないこと、至近距離で争った形跡がないこと、3人の遺体が負った致命傷はほかの人間によるものではないとし、マンシ人説を否定

しかしそのどれもが否定されており、2020年7月には前述した通りに真相として「雪崩」が原因であると発表されています。

しかしながら、雪崩だけで全てが解決されてしまうには謎が多く残されています。

  • 雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張
  • 捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる
  • さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない

こういった点から遺族の方々は納得が出来ていないものと思われます。

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